2012年3月12日

なぜ本を書くのか

5冊目の本(新書)を出した.専門書が2冊,新書(1000円未満の小型の)が3冊.

しかしながら,本を書いてて,よく分からず,人に訊かれても自分で納得する答をできていないことが1つある.それは,「なぜ本を書くのか」ということ.

印税ががっぽり入るでしょう,と言われるが,そうではない.経営が苦しすぎない出版社である限り,著者に10%の印税を渡すのが普通だ.900円の新書だとして,1万冊位初版で刷ることが多いので,1冊につき90円,1万冊で90万円となる.税引後で70〜80万円だろうか.大金だと思うかもしれないが,執筆は,正規の仕事以外の時間で行う.副収入でそれだけ入るなら尚更よいと思うかもしれないが,実は,本を書くのはものすごーく時間がかかる.時給に直すと大したことない.金が欲しければ,もっと割の良いバイトがある.

しかも,研究と本の執筆は,うまく両立しない.一日の8時間を正規の仕事に,4時間を本に,という切り分けは,私には難しい.執筆中の数ヶ月(以上)は,本のことで頭がいっぱいになるものだ.常に本のことを想っていれば,道を歩いてるとき,電車を降りるとき,ふと書くべき小ネタが1つ空から降ってくる.すかさず書き留める.漫才師のネタの仕込みか!? 常に本のことを想っていれば,その分だけ研究は疎かになる.二股は許されない(ちょっと誇張し過ぎだが..).

業績になるでしょう,と言われるが,そうではない.自分の分野を含む,特に理系の多くの分野では,業績は国際的な場(論文,学会)で英語で書いた・しゃべったもので数えられる.したがって,日本語で本を書くことは,業績とは関係がない.専門書以外の本の場合,むしろマイナス評価だと言う人すらいる.

ではなぜ書くのだろうか.人に訊かれたときに答えるのは以下である.

(1) 本を書くと,自分の頭の中や既存関連文献が整理されて,研究やその他の活動のアイディアにつながる.実際,今やっている一つの研究は,今回の本を書いてて重要さを認識し,やることにした.

(2) 自分の書いた本を誰かが読んでくれて,それがもとで共同研究などの面白い展開になることがある.実例がある.その人は,私の新書を読んで,自分の持っている研究の種(院内感染)について私のところに相談しに来た.そこから共同研究に発展したのだ.

(3) 子どもが生まれると,100%の集中を要する研究という営みはしばらくできない.しかし,50%の集中でできるような泥仕事(図の調整とか語句の見直しとか)も多い本執筆という作業ならできる.したがって,子どもが生まれる(or 乳児時の子育て)タイミングで書く.実際4冊目の本は長女,今回の5冊目の本は次女のタイミングで書いた.もう1人生まれたとしたら,もう1冊書きます.

ただ,本当にこういった理由かなぁ,という気がするのである.(1)〜(3) は本音に反していない.ただ,決定的な理由ではない.

(1) を言うなら,本を書く代わりにその時間を全て考える作業に充てる方がよい.

(2) については,共同研究者を発掘するためだけなら,もっと効率のよい方法がありそうだ.

(3) は,そうだからといって書かなきゃいけないわけではない.

やっぱり,書きたいから書くのである.

書くという作業は基本的に好きだ.そして,わかりやすい文章を書くこと,その速さにはかなり自信がある.最近,あまたいる研究者と比べたときの自分の強みは何だろう,と考える.答の1つは「書くちから」.文章を作るのは,論文でもその他でも基本的に楽しいし,それを世に出すのは一種のわくわく感がある.それとともに (1)〜(3) も期待できると考えればしめたものだ.

自分にとって書く理由はこれで十分.全てが合目的的である必要はない.自分の強みが生かせることをやる.自分が比較劣位なことはなるべくやらない.これ仕事の基本.色々な結果は後からついてくると期待して.