2014年8月27日

研究者の残念な口頭発表

日本人研究者の口頭発表(講演)は、概して下手である。

(日本の)大学の研究室では、学生や研究員、時には教員が発表当番を週ごとに回す場があるのが普通である。また、学会でも、各自が15分なり60分なり発表するセッションが並ぶ。

学生の発表が下手なのは、経験不足かもしれない。しかし、研究員や教員の多くも、発表が下手である。国際学会だと、英語が障壁で発表が下手なのかもしれない。しかし、日本語で発表しても上手でない人が多い。もちろん、(とりあえず日本語だとして)発表がうまい日本人は何人もいる。ただ、その割合が少ない。プロの研究者(大学教員など)でも、そうだ。

どのようにしたら、発表技術は向上するだろう? 世間のプレゼン本に色々な技術が書いてある(1冊は読もう)。アイコンタクト、スライドの細かな構成などなど。そこに書いてあることと重複はあるかもしれないが、私が聴き手として感じることを挙げてみる。

  • 時間を守る。

    持ち時間は60分なのに「もう少しなので」とか言って75分しゃべる発表者。聴いている側も時間を気にしないことが結構多い。例えば、私的な研究会だと、発表者が自身の持ち時間を聞いたときに、主催者側が「あまり気にせず、何分でもどうぞ」と答えることもざらではない。

    発表途中で活発な質問があって長引くのは、時間が許すなら良い。ただ、「仮に質問がない場合の発表者の持ち時間」は決まっていて、発表者は守るべきだと思う。だらだら講演し、だらだら質疑応答する時間は、生産的に見えない。発表者にとって、時間を守ることは、スライドや話の展開をよく準備することにつながり、自分の頭の中を整理することにもなる。

  • 卑下をやめる。

    「これは当たり前の計算結果ですが」

    これは、残念な研究発表の常套句である。本当に当たり前なら、削れば良い。例えば、実はその結果は当たり前ではないから、スライドにしてあるのだろう。だったら、こういう常套句は言わない。あるいは、確かに当たり前の計算結果なのだが、そのスライドを削ると、以降の発表内容を理解できなくなる聴衆が多いのかもしれない。こういった何らかの理由があって、当たり前のスライドをわざと入れ、効果を発揮させる。謙譲は日本の美徳だとはいえ、この手の謙譲に長所はない。

    「みなさんご存知と思いますが」という常套句もやめよう。みなさんがご存知なら、そのスライドを省けは良い。この言い方をする大抵の発表者は、「これは当然前提知識としていいですよね」という上から目線で言ってるわけではないように見える。むしろ、聴衆の中に専門家、大家がいて、その方にとっては簡単すぎで申し訳ないという気持ちで、そう言ってるように見える。どのみち、「ご存知ではない」人にとっては聞いて嬉しい言い方ではないのでやめよう。当然ご存知の専門家には、簡単すぎると思われてよい。

    こういった卑下は、時間の無駄でもある。そのスライドを正面から説明するのか、削るのか、どっちかに決める。

  • 専門語をやめる。

    「こんなに専門語を連発して、この発表者は、聴衆が理解できてると思っているのだろうか?」と感じる場面が多々ある。大抵の学会や研究会には、それなりに色々な背景を持つ人が来る。このとき、専門語で聴衆を惑わせてしまうことは多い。もっと簡単な単語に言い換えられないか? その単語なしで発表全体を作れないか? 最初の方のスライドで、その専門語をしっかり定義するのはどうだろう? 改善の仕方はたくさんある。

    専門語を使う方が格好いい、専門語を使ってないと専門家らしく見えない、というのは誤解である。ほぼ同じ分野でも、ちょっと専門がずれただけで相手の専門語が理解できなくなると思っておく位でよい。平易な言葉で、という方針でスライドを作ろう。

  • 文字や数式を詰め込み過ぎない。

    スライドに文字をたくさん入れて、棒読みしたり、読者に読ませたりするなら、その発表は退屈である。スライドを読む? 読者はそんなことをしたいわけがない。長い文字部分を飛ばして次のスライドに行くのなら、読まない文字は削る。スライドを見やすくするためにも、しゃべらない要素は極力排除して、文字や数式や図を少なくする。もし高度な質問された場合が心配ならば、質問対策用の予備スライドを作り、スライドの一番最後に置き、該当質問が出たら予備スライドを出して説明する。

  • 「何々という話」はない。

    「この分野には何々という話(過去の研究事例や研究の流れ)があって」とか、「その話で言うと、私の研究は...」というのも、残念な常套句である。もっとも、私の近隣分野に特殊なことかもしれないし、研究畑でない方にはピンとこないかもしれない。例えば、「コミュニティ分析という話があって」とか、「xxxネットワークという話があって」という使い方をする。

    「何々という話」と前置きすることは、自分の研究題材や研究内容を正当化しない。「コミュニティ分析という話がありまして、私の研究は...」と言っても、前半部分は何の導入にもなっていない。「コミュニティ分析」が、理論や応用の上で大事だからこそ、自分の「コミュニティ分析」に関係する研究の意義が正当化されるはずである。だったら、「コミュニティ分析」がなぜ重要か、を背景として説明する。もし時間がなくても、短く背景を説明する。「話」という単語に責任を押しつけてはいけない。「話」という単語を、講演から排除する努力をしてみよう。