2019年9月25日

海外就活2

2017年8月から、アメリカの研究大学を主なターゲットとして就活を行った。
職種は大学教員。イギリスや東京のときと、職位はともかくとして同じである。

「イギリスの大学じゃだめだったんですか?」
「ブレクジットが理由ですか?」

これらの質問を避けて就活だけを語るのは、しらじらしいかもしれない。
一方、イギリスには自分や家族の友だちが多く生活している。

理由は結局1つに行き着いて、私個人の経済である。
肌感覚に過ぎず、数字の裏をとったわけではないが、イギリスにいた間、物価全体が年に5%位ずつ上がっていた。一方、給料の手取りは年に1%ずつ上がっていた。したがって、イギリスにいた5年間で20%程度貧乏になった。今後上向きを期待できる具体的事項もあったけれども、私自身については持続するのが難しいと判断した。

2017年の夏、アメリカの大学で長く活躍している、ある日本の人に会った。しかも、私と同じ研究分野である。
その人の回答は簡単だった。

「増田さんなら行けますよ」

いや。社交辞令や激励がほしいわけではない。本当に行けるかどうかを知りたい。行けないなら行けないと言ってもらって、何が足りないかをどかんと言ってもらえる方が助かる。
特に、私は、イギリスに来てから研究費を大きくは獲得できていなかったことに引け目を感じていた。
また、アメリカで私の分野の研究者たちを思い浮かべてみると、上、下、同じ、どの年齢層を見ても、ものすごい人がたくさんいる。
したがって、自分がアメリカの就活で勝負できると思っていなかった。

「増田さんなら行けますよ」

本気でそう思う、とのこと。

そこで、短いお昼ごはんの会の中、コツなどを教えてもらった。

就活開始。

仕事と家族の両面を鑑みて、第一希望はアメリカだった。そして、シンガポールとオーストラリアにも十分な興味があった。また、限局的には香港や中国にも興味があった。カナダは、寒さだけを理由に、バンクーバーにあるとても強い2つの大学以外は考えなかった(ただし、それらの大学に関連公募が出たとしても、自分が相手にされるとは思わなかった)。2年位就活をしても決まらなかったら、カナダにも出すだろうと思っていた(ただし、カナダの方が他国より就職しやすいわけでは特にない)。ヨーロッパの中ではスイス、ドイツ、それに少しだけオーストリアをチェックしていた。ただし、これら3カ国で自分が採用されるのは難しいと考えていた。

海外の大学への就職については拙著「海外で研究者になる」にも詳しい。ただし、この本は、私のこの就職活動について書いた本ではない。むしろ、インタビューに応じてくださった17人の日本人の海外就活や、私の1回目の(イギリスに行った)就活などについて書いてある。

ただ、1回目の海外就活の経験、イギリスで学んだこと、この本を書くために自分なりにいろいろ調べたこと、見聞きしたことなどのおかげで、準備はできていた。

アメリカの就活は、大雑把に言って、8月〜11月に公募が出て10月〜12月に締め切られることが多い。書類選考、ビデオ面接、キャンパスでの面接、内定者決定、交渉、などを行った上で8月後半くらいから始まる新年度に間に合わせようとすると、逆算して秋口の公募になるのである。

私が最初に考えたことは、自分をどう売りこむか、だった。相手にとって分かりやすいのが良いし、採用側は、この人は数学者、この人は経済学者、などとレッテルを貼りたがることが多い。私の分野である「ネットワーク科学」や「数理生物学」は学際的な分野であるが、ネットワーク科学科や数理生物学科があって公募を行っているわけではない(少数の例外はある)。いま、とある数学科で、数理生物学も対象分野に含む公募が出ているとする。しかし、採用委員会には、純粋数学や、他の応用数学分野の人も入っているかもしれない。純粋数学の委員には、「この候補者は数学さが足りませんね」と言われるかもしれない。いっぽう、コンピュータ科学科の公募に挑戦すれば、「この候補者はコンピュータ科学の学位を持っていないし、うちの学科でいろいろな授業を受け持てるでしょうか?」と待ったがかかるかもしれない。

結局、自分の核は「ネットワーク科学」と「数理生物学」であり、ふたつの比率が7対3位でお互い絡み合っていること。私は他の研究も行っているが、それは横道に逸れるので、書類でも面接でも出さない方針にすること。基本的には数学科や応用数学科を目指すこと。コンピューター科学、システム科学などの学科の公募に対しては、出してもよいのだが、先方に知り合いがいない限りは見込みは薄いこと。これらを確認した。

したがって、数学に特化した公募情報サイトである MathJobs と、一般的な公募情報サイトである AcademicKeys の Science と Engineering 分野の公募だけをチェックした。前回の就活では、行きたいと思う全ての大学について、2週間に1回程度、各大学のウェブサイトをチェックしたが、今回はそうしなかった。数学の公募なら MathJobs には絶対出るので、自分が主に数学関係にターゲットを絞った以上、基本は MathJobs で良いという判断である。

1年目。

5個の大学で書類選考を通過した。4つがアメリカの数学科である。もう1つは、とある国のコンピュータ科学科であった。5大学とも私の基準では良い大学であり、もし内定すれば、よほど条件が変でない限り異動していただろう。

2つのビデオ面接で、明らかに失敗した。「あなたは何においてオンリーワンですか?」、「どのように学内で共同研究やリーダーシップを発展させますか?」といった定番の問に対して、良い回答をできなかった。準備が甘かったし、これらの質問に対する自信が欠けてもいた。これは経験。しょうがない。

他の1つの大学では、ビデオ面接が自分の海外出張日程とかぶっていて、先方は日程を動かせなかった。そこで、騒がしくて、ネットも不安定になりかねない空港でスカイプ面接となってしまった。他の1つの大学では、ビデオ面接をうまくできたと思ったが、その先に進めなかった。

残りの1つの大学では、ビデオ面接はなく、いきなりキャンパスでの面接に呼ばれた。
なお、この大学の公募側には知り合いがいた。

いざ面接へ。情報面と心の準備はできていた。
アメリカの面接とイギリスの面接の一番の違いは、長さと濃さである。アメリカの面接では、複数の候補者を一度に呼ばない。そして、面接が2日間、時には3日間に渡ることが多い。イギリスでは、例えば5人の候補者を同時に呼んで2日間行う。2日間といっても、丸2日でないし、自分の出番は限られているので、さほど長くない。もっとも、日本よりはとても長い。

この面接は、自分としては最善を尽くせて、目立ったミスはなかったと思うが、通らなかった。
思い当たる節はあって、採用側学科の大半の人と分野が遠すぎた。
また、一般的に、採用側は、駆け出しのAssistant Professorの候補(「ジュニア」と呼ばれる)と年配のAssociate Professorや教授の候補(「シニア」と呼ばれる)がいたら、ジュニアを欲しがることが多い。私は、シニアの職を狙ったので、この意味で一般的な難しさもあったのかもしれない。
採用委員長の先生は、後日、私とスカイプしてフィードバックをしてくれた。ありがたい。

2〜4月締切といった公募もある。
そういう公募にも出すときは出す。就活は続くのである。
ただ、オフシーズンには公募は少ないので、一旦落ち着く。
こうして、1年目は終了。
この時点で、応募した大学数は35程度だった。

2年目。

色々な反省を活かして、書類の改良を行った。
とはいえ、私も就活玄人になりつつあった。
数年かけて自分自身をこう変化させたい、という計画はあったけれども、書類や作戦を見直して小手先で改善できることはもう少なかった。

その他に2年間を通じて知ったこととして、「アメリカの大学の数学科」といっても多様なのである。A大学の数学科では、純粋数学が主体だ。B大学の数学科では、応用数学も大きな勢力だけれども、ここからここまでは応用数学に入る、それ以外は数学とは呼びにくい、という範囲が、どこにも書いていないのだけれども明確に見てとれる。C大学の数学科では、物理出身の人なり、数学よりもデータっぽい人なりも混在している。私に内定をくれうる数学科は、C大学のような数学科のみだ。そして、数学科がA、B、Cのどの型かということと大学のレベルは、あまり関係ない。各大学の数学科の教員ページをつぶさに調べると、各大学の数学科の色、どの大学がC型か、が分かってくる。今回、私は奉職した数学科は、応用数学部門がC型である。

さて、2年目は、夏に呼ばれた面接を合算すると、まず、6大学においてビデオ面接に呼ばれた。そのうち5つの大学からキャンパス面接に呼ばれた。アメリカが2大学で、他国が3大学。なお、キャンパス面接に呼ばれなかった1つは、私がビデオ面接で落ちたのではなく、大学側の都合で公募そのものがビデオ面接の後に取り止めになった。来年度にもう一度公募を行うとのこと。

数字だけを見ると前年よりもうまくいったように見えるが、そうではない。1年目とは異なり、分野のマッチング、条件、生活面の理由で、もし内定を頂いたとしても行くかどうかは分からない大学もいくつか含まれていた。2年目なので、実績も幾分は伸びているだろうから、1年目よりは全体的に戦えるだろうと思っていた。バッファロー(現職)から内定を得たので「結果良ければ全て良し」だが、1年目より2年目の方が全体的に良かったというわけでもない。

さて、夏に呼ばれた面接は落ちた。
バッファローからは内定を得られた。その時点で、面接が行われた直後だったり、面接の直前だったりして生き残っていた公募があったが、バッファローに行くと決めたので、それらは丁重にお断りした。

2年間で、合計88の公募に出した。出しすぎだろう(笑)。

推薦書を書いてくれた先生方(アメリカの大学に公募する時は、基本的にアメリカの大学の教授の知り合いに推薦書をお願いした)、相談に乗ってくれた多くの同業者、無理な出張スケジュールを支えてくれた家族のおかげである。

最後に、前回の就活では、ブログ「海外就職」にも書いたように、アメリカに50程度、イギリスに20程度応募した。この比率は、アメリカとイギリスの大雑把な公募数の比率を反映しているだけであって、どっちの国により行きたい、ということはあまり意識していなかった。結果的に、イギリスのみで面接に呼ばれ、ブリストル大学に内定した。

そして、この度、アメリカに行くことになった。だが、仕事だけに限っても、イギリス、ブリストルには大変お世話になった。社交辞令ではない。イギリスでの5年間がなかったら、アメリカの大学には絶対に内定できなかった、と断言できる。イギリスが研究者としての自分を育ててくれたのである。もしイギリスに行かずに日本にいて、5年間半大学教員を続けていたら、どこかの大学で教授に昇進していたかもしれない。また、昇進の有無に関わらず、どこかのタイミングでやはり海外就活をしたかもしれない。しかし、私の実力では、そのタイミングでアメリカに行こうとしても、まず無理だっただろう。

イギリスに勤めていたことは、西洋基準での教育をできる、西洋の大学人で(も)ある、としてアメリカに受け取られる。また、イギリスに行くことによって、色々な理由で、私の研究レベルは、私が日本にいた場合よりも発展したと思う(日本にとどまる方が伸びる人もいる。一般化はせずに、私の場合はイギリスで伸びた、とだけ言いたい)。これらの積み立てがあってこそ、アメリカの就活で張り合えた。

なので、イギリスちゃんには、仕事だけに限っても、とてもお世話になったのである(公私において様々な人にとてもお世話になったことは、言うまでもない)。