49歳にして、3回目の転職をした。
最初の転職は2014年だった(東京大学 → 英国のブリストル大学)。その時は、2回目の転職をするとは想像しなかった。
1回目と2回目の転職についてはこのブログで書いた。(この Google ブログは、ソーシャルメディア、あるいはブログの媒体としては良いのかどうか迷っていて、ブログごと引っ越すかもしれません。それについても情報や意見歓迎です。)
なので、3回目の就活について話す。
2回目の転職では、2019年にブリストルからアメリカ(バッファロー)へ異動した。
バッファローの仕事や生活は、いくつかの重要な意味で安定していた。すなわち、
- 日本でもそうだが、多くの大学教員にとって最重要事項の1つがテニュア(終身在職権)である。任期付き職ではなく、定年までいられるかどうかである。アメリカの大学の場合、定年すらない。東大やブリストル大学では、私はテニュア有の教員だった。私は、准教授としてバッファローに異動した。アメリカの准教授は、普通テニュア有である。しかし、1年待って(実質的な観察期間)、勤務2年目にテニュア審査をする契約だった。その通りに事は進み、テニュアを得て、職が安定となった。
- 以前のブログにも書いたが、私の場合、バッファローに異動して2年目のテニュア審査が、准教授から教授への昇進審査も兼ねていた。これは想定外であったが、審査に通って教授になれた。アメリカ、イギリス、中国などでは、教授の上の職(アメリカでは Distinguished Professor と呼ぶことが多く、イギリスや中国では Chair (Professor) の呼称をよく聞く)がある。とはいえ、日本と同様に、教授になれば、とりあえずは一番上の職階まで到達できたと思う研究者が大多数であると思う。その意味でも安泰となった。
- 2019年にバッファローに異動したときと比べて、給料が結構増えた。
- 子どもの学校(特に、中学校と高校)の質が安定していた。これについても過去のブログに書いた。とあるランキングによれば、娘の通う高校はバッファロー地区で2番目に良い公立高校である。実際、毎年200〜250人いる卒業生の5〜10人位は、アイビーリーグやそれと同等の大学(MIT, Northwestern University など)に進学している。
- ニューヨーク州が手厚いということなのかもしれないが(他の州のことはよく知らない)、医療や年金が安定していた。
では、なぜ転職する必要があったのか。
必要はなかった。東大からイギリスに行った時と、イギリスからバッファローに行った時は、それぞれ、異なる理由で転職の必要が私なりにはあった。(転職せずに定年までそこにいることは可能だったけれども。)
転職の必要はなかったが、2021年9月にテニュアを得て教授に昇進したとき、自分のマーケット価値は今が高い、就職市場においては自分は今が旬かもしれない、と急に考えた。テニュアと教授職を得ただけでなく、当時、たまたま競争的研究費を結構獲得できていたというのもある。瞬間風速としては現時点(2025年8月)よりも多く取れていた。テニュアと教授昇進が確定する瞬間までは、もし確定したら就活をしよう、するかもしれない、とは全く考えなかった。テニュアと教授昇進が確定した瞬間からふと思い始めたのである。
そこで、妻には相談した上で、就活を始めて見ることにした。
今までの2回の就活との大きな違いは、異動する必要がなかったことである。
現状より明らかによくなるなら異動するかもしれない、という構えであった。
もし内定をとれても、異動はせずに、それを元の大学(ニューヨーク州立大学バッファロー学校。以下、UB と呼ぶ。University at Buffalo ないし State University of New York at Buffalo の略称である。)で賃上げ交渉に使う、という動機もあった。
これは、アメリカの「あるある」だ。
なので、UB で給料が結構上がったと先に書いたが、UB に留まるにしても給料を上げる狙いもあった。
UB では、給料を上げる唯一の方法は他の大学から内定をもらって UB と交渉することだ、と言う同僚が何人かいた。
また、実際に、UB が教員にその手の調査を行ったことが1回あった。
こういう状況もあって、UB に限らず、アメリカの大学教員は、常日頃就活をしている人が多い。
また、アメリカの有名大学の教授で、自分と分野が近い知人に相談したところ、私のマーケット価値(年俸)は、当時(2022年位)私がもらっていた給料よりは高いかもしれない(具体的に、「XX〜YYドル位」)、というコメントを頂いた。
これも就活をする動機になった。金の話を強調したいわけではないが、新しい職の給料が今より低くなるならば、いくら仕事のやりがいがあるとしても転職をためらう。
実際には、大学が私の給料を大きく上げたことが2回あった。(したがって、UB では他から内定をもらわなければ給料が大きく上がらない、という説は正しくない)。
これは、「他の大学に行かないで〜」というサインである。
この仕組み(の私の場合よりももっと極端に給料を上げるような場合)によって、アメリカでは超有名ではない大学にもすごい研究者がいて活躍していることがある。超有名ではない公立大学でも、超有名大学よりも高い給料やその人用の研究リソースを積むことだってできる。大事なことは、その教員が、大学にとってどれだけ価値があるかだ。
就活の作業工程そのものは、毎回同じである。 しかし、今回の就活の戦略は、前回(ブリストル → バッファロー)とは次のように異なった。
- アメリカでは特に、自分が何学科の人であるか、は大事である。私の UB での所属は数学科だった。そして、数学科、(応用)数学界の人として振る舞って、そういうコネクションや活動を作ることに重点を置いてきた。2022年頃は、そのような活動が少しずつ実り始めた頃だった。したがって、(物理やコンピューター科学や他の工学の学科ではなく)数学科、または応用数学科に出すことを基本方針とした。
- 一方で、アメリカのいくつかの大学には、自分の分野である「ネットワーク科学」の人が多く雇用されていたり、研究センターを作ったりしている大学がある。自分の分野のことだしアメリカで何年か勤務したので、どの大学のどの学科がそういう学科であるかは、一つずつ把握していた。したがって、そういう学科でもし公募が出たら、出す心つもりだった(実際にいくつか出した)。
- アメリカでは、AI やデータサイエンスを謳う大学教員公募が、コロナ前後位から多くある。就活を始めた時点では気づかなかったのだが、自分は応用数学者(と自分では見なしている)ながらもそういう人材として戦えるかもしれないと気付いた。実際、日本にいた2010年頃から、データ(特に生物や医学のデータ)の研究は、結構がっしりやっている。したがって、そのような公募を見つける努力もした。
- UB では、正直、優秀なポスドクや博士課程学生に増田チームに来てもらうことに苦労した。上位の大学にとられてしまうからである。日本でもよくある話だろう。私がもっと輝けば、UB でもいい人材に来てもらえると期待して努力をしていたが、限界はあった(諦めたわけではないが)。この状況を打破する有力な方法は、より強いとされる大学に私が異動することだ。特に、アジアからの留学生は、大学のランキングを気にする傾向があるように感じる。そこで、少なくとも数学分野で UB より強いだろうとされない大学には例外を除いて出さないことにした。例外は、(1) Distinguished Professor のような職、(2) 私立大学でバッファローより給与水準が確かに高い、の2つである。
- アメリカ以外の国に行く気はなかった。したがって、試しに出してみる少数の例外(実際には1つだけ)を除けば、アメリカの大学のみに出すことにした。
このように絞ると、出せる公募は多くないと思った。
それでも2021年冬〜2022年春のサイクルでは25個の公募に応募した。(改めて数えてみて、そんなに出したのかとびっくりした。)
ただし、その大半が Assistant Professor 限定だったので、その意味でダメ元が多かった。
実際、2箇所でビデオ面接(キャンパス面接に呼ぶ前の段階の面接)に呼んで頂いたが、その両方で、「今回は Assistant Professor 限定なので、先の面接に進めることは多分できない」と言われた。しかし、面接させてもらえることは、つながりを作ることにもなるので、結果にかかわらず、ありがたいことだ。
2022年冬〜2023年春のサイクルでは17個に応募した。その1つが現職(ミシガン大学)だったが、選考過程に時間がかかった。 もう1つの大学でビデオ面接(キャンパス面接に呼ぶ前の段階の面接ではなく、ビデオ面接が本面接)に進んだが、内定は得られなかった。
2023年冬〜2024年春のサイクルでは18個に応募した。そのうち1個でキャンパス面接に呼ばれ、内定を頂いた。しかし、申し訳ないながらも、その大学ではなく、現職の大学を選ぶことにした。
2024年冬〜2025年春のサイクルでは、現職の選考過程がポジティブに進行中であった。内定はまだだったので他大に応募することもできたが、熟考の末しなかった。
結局、合計 25+17+18 = 60 個も応募を出した(びっくり)。しかし、これらの中には、Assistant Professor 限定と書いてあった公募が含まれる上に、重複もあった。ある年に応募して音沙汰がなかった大学が、同じ部署や似た部署で次の年にも公募を出した場合が多くあったのである。席が複数あって複数年に渡って公募を実施している場合もあるし、ある年に採用に失敗したので、次の年にもう一度採用を試みる場合もある。このような場合には、2回目の応募を送ったものの期待はしていなかった。1回目(=1年目)ですでに駄目と判断されているからである。 このような重複を除くと3年間で応募した合計数は 40 弱だった。
「Assistant Professor 限定なので先に進めるのは難しいです」と言われた2つのビデオ面接を除くと、現職以外の面接に呼ばれた2つは、相手先に知り合いが複数いる大学・学科だった。現職については、応募時点では相手先(= 今の職場)に知り合いがいなかった。運が良かったと思う。また、運だけでなく、私を採用したいと思って色々尽力してくれた人たちがいるということである。
自分の他の経験も含めて言うと、大学のテニュア教員の公募は採用側の熱意もあって初めてうまく行きうると感じる。
現職で採用が決まるまで時間がかなりかかった理由は2つある。差し障りないと思うので書くと、
- 研究科レベルで異なる2つの学部(Department of Computational Medicine and Bioinformatics (DCMB) と数学科)のジョイント雇用で(DCMB は Medical School に属し、数学科は College of Literature, Science, and the Arts (通称LSA) に属する)、両方のリーダーや事務が各種作業、議論を行う必要があった。
- テニュア付きの教授雇用で、自分の場合は、最終内定を出す前にテニュア審査を行うことになっていた。テニュア審査というものは、どこでも時間がかかる。UB の自分がいた部署では、テニュア審査なしで教授や准教授でも内定が出るのが普通だが、その場合は、赴任してからテニュア審査を通過する必要がある。テニュア審査は、雇用された後に起こるからといって、通ると決まっているわけではない。やはりとてもびくびくする。特に、ミシガン大学は DCMB も数学科もトップクラスである。そこで自分がテニュアに通るかどうかは、周りの関係者達がいくら「あなたは大丈夫だろう」と言ってくれても、全くもって心許ない。したがって、時間はかかったが、先にテニュア審査をしてくれたのはありがたい。実際に、赴任してからその手の心配事がないのは、何ともすがすがしい。まして、UB の職が危機にさらされていたわけではないので、結局のところ、急ぎではないのだ。「果報は寝て待て」。
かくして、2025年の5月の中旬に、アメリカのデンバーで研究会議が行われている最中に、7/1 の内定が確定した。決まった途端、同会議に参加している色々な知り合いに公表し始めた。かなりドタバタに見えるかもしれないが、私もミシガン大学も備えていたので、混乱もなく(確かに引っ越し周りは忙しかったが)、引っ越しも終えて(まだアパートに仮住まいだけど)、今に至る。新しい仕事が楽しみです。