1997年3月15日

環境について(某バイト応募のための小論)

経済的に豊かな国では物やエネルギーが当然のように浪費されている。環境問題は認識されつつも現状では規制、保全対策は不十分で、人々の意識も低い。私は人が物やエネルギーの浪費、環境問題を放置している社会全体をおかしいと考える。

我々は紙を大量消費し、大半はゴミとなる。日用品も使用可能のまま捨てられる。これらのつけは環境が負っている。森林伐採、大気汚染、ゴミ問題など環境汚染の例はきりがない。それでも人が物やエネルギーを浪費するのは楽だからである。物を丁寧に長く扱うよりも、買った方が楽で安くてきれいならば買うのはもっともである。環境問題は囚人のジレンマである。もし自分だけが環境に配慮して(環境型)、他の全員が好き勝手にする(非環境型)なら、自分一人が損をする。逆に多くの人々が環境型ならば、自分一人は非環境型でも大丈夫だろう、と楽をしたがる。結局大多数の人が非環境型となり環境は汚染される。これは安定だが最悪の解である。全員が環境型という不安定だが最良の解に移動させなければならない。

友達同士の二人だけの世界で考えるなら、二人とも裏切らずに環境型となるかもしれない。しかし、世界の他人全員を信頼せよ、というのは無理である。現在の対策では一人一人に環境型になるよう啓蒙するが、これは他人も環境型だと信用することと裏腹なので大多数の啓蒙に至らない。最良の解への移動は強制的に行う必要がある。政府が物とエネルギーの消費、廃棄物の排出について課税すればよい。税の査定は環境汚染の量を基準に行うべきで、消費資源や汚染物質の量、環境面での生産コスト、廃棄物の汚染力などで定める。環境対策にこの税金をあてれば、環境を汚すほど税金が高くなるというフィードバックも働く。啓蒙は続ける、途上国のクリーンな経済発展を支援するなどの肉付けも社会全体の関心を高めるために必要だが、政府の先導は欠かせない。この結果全員が法的に環境型に縛り付けられる。環境にやさしく資源消費が少ない技術や商品は注目されて開拓される。必要は発明の親である。例えば、情報の電子化が急速に進み紙の消費が減るだろう。

そうしたら世界の経済発展が止まる、生活水準が下がる、といった反論は人間の身勝手である。地球は人間だけのものではなく、少なくとも自分で蒔いた種は自分で拾う義務がある。また、それは人類自体が生存していくためでもある。日本の都市部に車は不要である。容器は不潔に感じても再利用する。人類は生活水準を何十年前に戻してでも頭を冷やして環境との共存を目指すべきだ。足を引っ張りあっている時間的猶予はない。